ウルグアイの魔術師、ヘクトル・スカローネ

ウルグアイの魔術師、ヘクトル・スカローネ

 豊かな技術力、数多くの得点に想像を超える才能。かつてインテルに所属しウルグアイサッカーの歴史を築いたヘクトル・スカローネにスポットを当てた。

 ミラノ発 - 「正直なところ己の人生において多くの選手と対峙してきたが、私にとってヘクトル・スカローネはその中でも最高の選手だった」。これは非常に高い賛辞だといえる。インテル史上におけるクラブ最多得点記録を保持し、イタリアが輩出した偉大な才能を持つサッカー選手の一人であるジュゼッペ・メアッツァが口にしたのであれば尚更だ。メアッツァとスカローネは1931-1932シーズン、インテルでドレッシングルームを共にしていた。

 

 モンテビデオ・ワンダラーズで過ごした短い期間を除いて、スカローネが自身の母国でプレーしたのはナシオナル・モンテビデオだった。スカローネはナシオナルと共に1916年から1934年の間で8つのタイトルを獲得している。

 

 スカローネがナシオナルにもたらした並外れた資質と数え切れない得点の数々は、ファンが自ら同フォワードに魔術師という愛称をつける切っ掛けとなった。19歳という若さで代表チームに初めて招集されると、その後スカローネはウルグアイ代表で31得点を決め、4回のコパ・アメリカ優勝、2回のオリンピック金メダル(1924年、1928年)、また1930年のワールドカップ優勝を獲得した。

 

 スカローネは豊かな技術とゲームを読む才能、空中戦での強さとパワフルで精密なシュートを備えていた。1926年、彼は1928年に開催されるアムステルダム・オリンピックへの参加を許可しなかったバルセロナとの契約を拒否した。これが正しい選択であったことは、再試合となったアルゼンチンとの決勝でスカローネが自国に金メダルをもたらす決勝ゴールを挙げたことで証明された。彼は準決勝の対イタリア戦においても勝ち越し点となるゴールを決めている。

 

 スカローネとネラッズーリの出会いは1931年にセリエAを5位で終えたアンブロシアーナ・インテルが、タイトル獲得を目指しデマリアとスカローネを獲得するためにコンタクトを取ったことに起因する。インテルで過ごしたシーズンを通し、残念ながら彼は怪我に泣かされることになった。それにもかかわらず自身の才能の片鱗を見せ、スカローネは14試合に出場し7ゴールを決めている。1932年夏にパルレモへ売却されるまで、ネラッズーリは彼のプレーを1シーズン楽しむだけに終わった。

 

 1934年、スカローネは彼が愛し、そして現在彼の名を冠された西スタンドを持つエスタディオ・グラン・パルケ・セントラルで、ナシオナル・モンテビデオと共にプレーするためウルグアイへと戻った。それからおよそ80年の時が経過し、スタジアムは他のウルグアイを代表する偉大な選手であり、インテルの青と黒のユニフォームを纏った過去を持つ選手、 アルベル・レコバの引退の舞台ともなった。


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