Letters to Inter - Adriano | News

インテルへの手紙 - アドリアーノ

 ネラッズーリで公式戦177試合74得点を奪った同ブラジル人からインテルファンへ。

幸せとはシンプルなもの。

 それは例えば、叔母が道端でカートに積んで売っていたポップコーンの味だ:私があまりにもたくさん食べるものだから、”ピポカ(訳注:ポルトガル語でポップコーン)”というニックネームがつけられたほどだ。それは例えば、子どもの頃に毎日サッカーをしていたヴィラクルゼイロのグラウンドで舞い上がる埃の色。

 短パンに裸足。それが私のお気に入りのユニフォームだった。理由を説明する必要はない:それがスラムで育った子どもの人生だ。

 私が10歳の時、いつもと変わらないと思われた午後に道で突然銃声を聞いた。その内の1つが私の父アルミールの頭に当たった。全く偶然の事故だった。

 ファヴェーラに住んでいると、それほど大きな未来は望めない。しかし私はサッカーのおかげで常に少し上を目指すことができた。

 私は既にフラメンゴのフットサルチームでプレーしていたが、この時期は私が青年として成長しなければならない時期だった。母ロジルダが病院に行き、祖母のワンダと一緒に家で待っていたこの長く難しい日々のことを覚えている。私も役に立ちたくて、時々街角で靴磨きをしてお金を稼いだ。私の日常は学校とトレーニング、そしてただ待つだけの午後だった。父アルミールが病院を退院して家に帰ってきた日は私の人生で最も幸福な日の1つだ。

 私のパワフルな左足を知っている?子供の頃から左足を使ってトレーニングしていた。それでいつもドアや他の物を壊してしまい、母を怒らせていたよ。これが、母が私をフラメンゴに連れて行き、サッカースクールに通わせると決めた理由の1つになった。そのために払わなければいけないお金はないと父は知っていたにもかかわらず。でもママ、ロジルダは私の夢を否定しなかった:彼女は父に、私たちの叔母が援助してくれると語った。でもこれは良い目的のためについた嘘だった。それで彼女は道でお菓子の販売を始めた。

ファヴェーラで生まれ育つと、こことは違う輝かしい未来をイメージするのは困難だ。

 ファヴェーラで生まれ育つと、こことは違う輝かしい未来をイメージするのは困難だ。夢を持つことも難しい。だが私の母、父、祖父母は常に私に物事のポジティブな面を示した。彼らが私の人生に違いを生み出した:彼らは私がサッカーに集中することを許してくれた。

 私がサイドバックディフェンダーとしてプレーしていたことを信じられるだろうか?もちろん左サイドだった。私にとって難しかったが、フラメンゴでの冒険が始まる前に終わってしまったように思えても諦めてはいけないとわかっていた。それまではフォワードとしてプレーしていた。2000年2月にファーストチームと一緒にリオ・サンパウロ・トーナメントに臨み、ボタフォゴ戦でデビューを果たした。その数日後、サンパウロがフラメンゴと対戦した。私たちは1-0で負けていて、私は途中出場した:そして私が1ゴール3アシストを記録し、私たちが5-2で勝利した。

 私はサッカーを愛していたが、それ以上に両親にお返しがしたかった。私には確かな目的があった:それは家族のために家を買うことだ。

サッカーが私に自尊心と人生の目標、強い決意とバランスを与えた。サッカーは私にとって希望と人間性と同じ意味を持ち、他の職業に就いていたら不可能だった人生を与えてくれた。

 その後すぐにヨーロッパ、イタリアからオファーが来た。私はナーバスにもなっていなければ、何の心配もしていなかった:幸せで興奮した気持ちでミラノに向かう飛行機に乗り込んだ。私が望み、夢見た素晴らしい旅が始まった。

 そう、始めは夢だった。今でもそう思える。多くの試合と瞬間を経験してきたが、最も美しい記憶だ。加入からわずか数日後、私はマドリードとのアウェイ戦のためにチームに加わった。そして2001年8月14日にベルナベウに到着した。私はインテルのユニフォームを着ていて、レアルが私の目の前にいた。本当に夢のようだった。それ以上必要なものはなかった。ピッチに出て何も考えず、ヴィラ・クルゼイロの埃だらけのピッチにいるかのようにプレーした。ドリブルをし、対戦相手の股を抜いた、私には全てが可能だった。私がフリーキックを獲得した時、ベンチから私が蹴るべきだという指示がきた。私がストリートや家で練習し、母を怒り狂わせた左足シュートを覚えているだろうか?そのシュートを、私はこのフリーキックで世界に見せた。時速170㎞の速さだったと言われたよ!

 サッカー、ゴール、興奮。しかし悪いニュースは銃のように人を傷つけることができる。それは突然来て、人生を変えてしまう。2004年8月のバーリで、チームメイトと共にバスに乗っていた時に携帯電話がなった:「パパのアルミールが亡くなった」。悪い夢だと思った、そうであるように願ったよ。その時に感じた絶望を説明することはできない。人生でこれほどひどく、耐えがたい痛みを覚えたことはない。急いでミラノに戻り、飛行機を探した。その時感じていたのは息苦しいような不安とリオデジャネイロへの郷愁だけだった。そしてローマを経由してブラジルに向かった。

私の苦しみがどれほどだったか、他の人にはわからない。父の死は私の人生に何によっても埋め合わせられない虚無を残した。

 私のようなブラジル人にとって、この暗い日々に再び光が差し込んだのがスイスだったのは不思議なことだ。私はヨーロッパに戻り、バーゼル対インテル戦に出場した。私の精神状態を想像してほしい。次々と対人戦で競り勝ち、私を止めようとした相手選手2人を躱し、ゴールキーパーとの1対1にも勝って右足シュートをゴールネットに突き刺した。パパのアルミールにこのゴールを捧げるために全てのエネルギーを費やした。

 チームメイトのハグを今も覚えている。私の人生で最も困難なこの時期に、インテルは私の側にあった。モラッティは私にとって父のようだった。彼だけでなく、サネッティや他の人たちも私の近くにいてくれた。全員に本当にとても感謝している。この記憶は永遠に忘れないよ。

 皇帝。初めは、彼らがそう呼ぶほど私を愛してくれているとは知らなかった。私に対するインテル・ファンの愛情を少しずつ発見してくのはとても素晴らしいことだった。ミラノではいつも故郷にいるように感じていた:私のインテルに対する愛は永遠に終わらない。私はすぐに真のネラッズーリとなった:ダービーで試合終了間際に決めて3-2とした決勝ゴールがその証だ、そうだろう?

 全部覚えている:対戦相手のほとんど半分を抜き去ってゴールを決めたウディネーゼ戦、敗北、優勝の喜び、コッパ・イタリア決勝でローマ相手に決めた稲妻シュート、全てだ。私がインテルのユニフォームを着て最後のゴールを決めた試合は何だったか知っているかい?もちろんACミランとのダービーだよ

インテルは私の一部だ。私の人生に編み込まれていて、最も美しい瞬間で輝かせ、悲しく困難な時期も私と共にある。

 ミラノやサン・シーロ、ネラッズーリのユニフォームについて考えると、今でもあの歌を歌いたくなる。あの歌を忘れることはない。毎回私をハッピーにさせ、故郷にいるように感じられたあの歌、私もあなたたちのうちの1人、私たちの1人であると感じられたあの歌を:

「私たちの叫びと歓声がどれほど大きいことか、それは誰もが恐れるこの偉大な選手のためのもの。全員が私たちのブラジル人を応援している。拍手しよう、私たちにはアドリアーノがいる!」

Forza Inter!

アドリアーノ


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